【緊急提言】事実認定と初等教育〜 子どもたちの命と未来を守るために私たちができること〜

 1はじめに

子どもたちは、先の見えない時代を生きていく運命を背負っている。将来を確実に予測することができない以上、これは受け入れなければならない。その中で、自らが生き抜き、そしてほかの人を幸せにする人であってほしいと願う。彼らの成長を見守る者として当然の気持ちではないだろうか。彼らも、そのための方法を模索していくはずである。その方法の一つが、勉強なのだろう。勉強を通して培われるものは一つではない。そのうち、運命を切り開くための第一歩となるものは、正しく物事を捉える力だろう。生きていく上で、何かを判断することは避けられず、事実の正確な把握はその前提として不可欠だからである。

そうだとすると、初等教育の段階では、そのための土台を築くような教えが含まれているべきである。ところで、正しく物事を捉える力とは、どのようなものだろうか。今回、それを考える上で何か参考になるものはないだろうかと世の中を見渡してみた。そして辿り着いたのが、裁判であった。裁判が必要とされるのは、人々の間で何らかの問題が起こったときである。そのような問題は程度の差こそあれ、当事者あるいは社会にとって重要な関心事のはずだ。だとすれば、裁判所は妥当な判断をするために正しい事実の認定をすることが期待される。その結果、そこでは事実認定に関する何らかの方法論が構築されてきたはずである。そこで、以下ではまず裁判における事実認定を取り上げ、その仕組みに迫る。その上で、その仕組みの本質を探って裁判外への応用を試みる。最後に、それを踏まえ、現在の教育と照らし合わせる。

2刑事裁判における事実認定

ここでは、(物騒で申し訳ないが)殺人事件の裁判を想定しよう。被告人は自らが犯人であることを否認している。そこで、検察は被告人が犯人であることを示すために様々な証拠を提出する。「被告人が被害者を殺害した/していない」という事実を正しく認定するために、裁判所はそれぞれの証拠をどのように扱うのだろうか。

(証拠①)殺害の瞬間を捉えた防犯カメラの映像

(証拠②)事件現場に残された犯人の血液(A型。被告人の血液型と一致)

証拠①からは、「被告人が被害者を殺害した」という事実を直接認定することができる。もちろん、映像の改ざん等の可能性は残るが、かなり有力な証拠であることは間違いない。では、証拠②はどうか。被告人の血液型と一致したからといって、「被告人が被害者を殺害した」とするのは通常の感覚からも難しいだろう。裁判においても、そのような事実を直ちに認定することはできないという結論になる。それは、以下のような考慮に基づく。血液型の一致から直接認定できるのは、「犯人がA型の人物である」という事実に過ぎない。それと「被告人がA型である」という事実を組み合わせて、「被告人が被害者を殺害した」という事実を導いている。このように、証拠から直接認定できる事実を用いて(ときに組み合わせて)別の事実を導くことを推認という。そして、この例からも明らかなように、推認には強弱がある。

「犯人がA型の人物である」、そして「被告人がA型である」という事実から「被告人が被害者を殺害した」という事実を導く推認は、日本人におけるA型の人の割合を考えると、一般的にはかなり弱いものと言わざるを得ない。したがって、そのような推認のみに基づいて被告人が犯人とされることはない、というわけである。強い推認とするためには、犯行現場は無人島であり、被告人と被害者を含む遭難者の中でA型の人物は被告人だけだったなど、新たな事実を認定することが考えられる。あるいは、少し事例を修正して、被告人と現場に残された血液の血液型がとても珍しいもの(Rh陰性など)だったとするならば、推認はやや強いものとなろう。

当然、証拠①のような、最終的に認定したい事実を直接証明できる証拠があればそれが理想である。しかし、必ずしもそのような証拠があるとは限らない。だからといって、犯人をみすみす逃がすわけにはいかない。一方で、犯人とされた者に科される刑罰が持つ意味は大きく、冤罪はあってはならない。このように相反する要請に応えるべく、裁判においては推認を用いた事実認定の理論が発展してきたのである。

では、次のような証拠はどうだろう。

(証拠③)「被告人が被害者を殺すのを見た」と供述する証人甲

(証拠④)「『被告人が被害者を殺すのを見た』と甲が言っていた」と供述する証人乙

証拠③からは、「被告人が被害者を殺害した」という事実を直接認定することができる。証拠①と同様である。もちろん、防犯カメラの場合と比べて、より慎重な認定が求められる。人間は噓を吐くこともあれば、見間違いや記憶違いが起きることもあるからである。それに対し、裁判ではいくつかの対策が講じられている。第一に、刑罰による威嚇。証人として宣誓した後に嘘を吐くと、偽証罪(刑法169条)という犯罪が成立する。第二に、裁判官による観察。証人が供述する態度を見て、その信憑性を一定程度判断することができる。第三に、相手方からの尋問。証人に対して初めに尋問するのはその証人を呼んだ側だが、相手(検察側が呼んだのであれば、被告人側)からも尋問が許されている。それによって、供述の矛盾や誤りを発見する機会が与えられる。このような対策の下で、証人の供述から事実を認定することが可能とされる場合がある。

一方、証拠④はどうだろう。証拠③と同様に、刑罰、観察、反対尋問によって、乙の発言から事実を認定できる場合もある。ただし、そこで認定できる事実は「『被告人が被害者を殺すのを見た』と甲が言っていた」というものである。そして、最終的に認定したいのは「被告人が被害者を殺害した」という事実だから、推認を挟む必要がある。しかし、この推認は弱いものである。

なぜなら、「ある人が〇〇と言っている」という事実から「〇〇だ」という事実を導くことは一般にはできないからである。証拠③の所で述べたことと通じるが、発言から事実を認定するためには、発言をしたその人に対して反対尋問を行うなどの措置を取らなければならない。ところが、乙に対する反対尋問などによって分かるのは乙の供述の正しさであり、いくら乙が本当のことを言っていたとしても、甲の供述の真偽は不明のままである。

結局、証拠④のような証拠は、必ず弱い推認を挟んでしまう。そのような証拠は伝聞証拠と呼ばれ、刑事裁判においては原則として事実認定に用いてはならないとされている(刑事訴訟法320条以下)。これは、伝聞法則と呼ばれる、刑事裁判の事実認定において採用されているルールである。

3刑事裁判における事実認定の一般化

以上が、刑事裁判における事実認定の概要である。その要点は、次のようにまとめられるだろう。

前提として、裁判に現れる事実は何かから導かれたものである。その上で、第一に、どのように導かれたかによって二種類に分けられる。一つは「証拠から直接認定されたもの」であり、もう一つは「別の事実から推認により認定されたもの」である。第二に、ある事実から別の事実を導く推認には、どれだけ確実かという点において強弱がある。第三に、推認が弱いものに留まる場合、新たな事実を認定することはできない(それを類型化したものが、伝聞法則である)。

これらは、裁判を超えて、それ以外の場面にも何らかの形で活かせるものなのだろうか。

私たちの生活を考えると、実に多くの事実が溢れている。それらは家族や友人、教師や同僚の口から語られ、書籍や新聞、テレビ、そしてインターネットによって届けられる。あるいは、私たち自身が日々生み出している。その事実は誰かが何かを知覚して認定することから出発し、何段階かの推認を経ているのだろう。また、裁判の例においては、基本的に客観的な事象としての事実が議論の対象だったが、日常においてはそれに限る必要はないのではないか。すなわち、認定と推認を経て生み出されるのは客観的な事象だけではなく、予想、推測、提案、命令など主観的な評価を含む場合もあるからである。そして、それらについてもその妥当性や信憑性を判定することは重要であろう。そこで、以下では、客観的な事象だけでなく主観的な評価を含むものも指すという意味で、「事実」という表現を用いる。

結局、私たちは現実で実際に起こっている事実、いわば真実に触れる機会は思いの外少ない。事実のほとんどは、認定と推認という形で誰かに「編集」されているといってもよい。「〇〇なら成功する」、「□□は安全だ」というのは、多くの場合、いくつかの事例を認定し、そこから推認を経ることで生まれた「事実」であろう。こうしてみると、裁判と前提を共有しているといえそうである。そこで、以下では上でまとめた要点も基本的には妥当すると思われる。とはいえ、裁判と日常生活の違いを考えると、そのまま当てはめるのは少々乱暴である。そこで、それらの要点がどのように妥当するのかを考えていく。

まず、「事実」にもその導き方に応じて二種類あるといえよう。しかし、日常生活を想定するとこの区別はあまり意味をなさないように思う。なぜなら、裁判においてはある証拠からどのような事実が認定できるかが厳密に判定されるため、その認定はより確実性が高いが、日常においてはこの時点で既に誤りを含む可能性がある程度認められるからである。故意に歪められることを除いても、見間違いや聞き間違い、データであれば解釈の間違いなどが当然起こり得る。そうだとすると、一般には推認の場合と変わらず、証拠からの認定にも確実性の面で強弱があるとしておくべきであろう。

そして、推認にも当然強弱がある。そこで問題は、ある「事実」を導く認定や推認が弱いものだと分かったとしてそれとどのように向き合うべきか、ということになる。刑事裁判のように、そのような場合は「事実」を認めるべきではないのか。これに関しては、その「事実」やそれに基づく判断の重要性によることになると思われる。裁判、特に刑事裁判では、事実認定に基づき、重大な結果が生じ得る。被告人はその意思に反し、刑罰という質的に重大な不利益を受ける可能性があるのである。その反面、事実認定は慎重に行われるべきである。そうだとすると、私たちが日常においてする些細な判断に関しては、たとえ弱い推認に基づく「事実」を踏まえてなされてもよいといえるだろう。一方で、例えば生命や身体といった、重要な事柄に関する判断を下す場合、弱い推認に基づく「事実」を極力避けるのは十分あり得る立場であろう

4初等教育への導入

前章で見たように、「事実」の信憑性を判断する際には、それを導く認定や推認の強弱に着目すべきだといえる。そのためには、「事実」がどのような認定・推認を経て出来たものかを明らかにしておく必要がある。このことは一般的かつ重要なことである以上、子どもたちに教えられるべきである。しかし、このような視点は現在の教育現場には欠けているのではないだろうか。そこでは、完成した「事実」を紹介することに特化していると思われる。「筆者の主張はこうだ」、「このような条件から、次のような式が立てられる」、「その現象が起きたのは、この物質にあの液体を加えたからだ」、「この人物は、あんなことをした」…といった具合に。「事実」の導かれ方は、少なくとも科目によって異なっており、認定・推認の強さは様々なはずである。ところが、「事実」がどのようにして導かれたのかに焦点が当てられることは少なく、仮に当てられたとしても、その過程で生じた認定・推認の強弱に関心が寄せられていないのではないだろうか。

このような状況で、「当たり前を疑え」とか「批判的視点を持て」などと言ってみたとしても、それは単なる妄想を助長するに過ぎないと思われる。理由をもって当たり前を疑い、本質的な批判的視点を持つためには、何はともあれその対象を分析しなければならないのではないか。そして、対象である「事実」が強弱のある認定・推認の積み重ねによって形成されているのだとしたら、その構造を把握することが不可欠である。

とはいえ、教えなければならない「事実」が決められており、そもそもそれ以外にも学ぶことが無数にある教育現場において、現状を大幅に変えるのは難しいのかもしれない。しかし、幸いというべきか、身の回りには常に「事実」がある。ならば、それらの「事実」を用いた練習をどこか別の場所で積むことも可能だろう。そのような練習によって、周りの人が口にしたり、本に書いてあったり、テレビやインターネットで発信されていたり、あるいは学校で習ったりする「事実」がどのようにして作られているのかを知る。当然、それらを作る認定や推認には強弱様々なものが含まれており、疑いを差し挟むことができることも理解する。これが、初等教育における一応のゴールではないだろうか。一歩進んで、判断材料とする「事実」を選ぶ基準が構築できればより良い。前述したように、普段の生活では弱い推認による「事実」に基づいて判断してもよいが、命に関わるような判断をする際には強い推認による、といった具合だ。

では、具体的に、どのような練習があり得るだろうか。一例として、通常の授業とは異なる理科実験が考えられる。実験では、子どもたちは第一に目の前で起きた現象を正確に認定しなくてはならない。そして、認定した事実を基に、あるいは組み合わせて、現象の背後にある原理に迫ったり、より複雑な現象の仕組みを解明したりする。これらを通して、(厳密な)認定や推認を自らの手で行うことができる。あるいは、歴史的な記述は元を辿るとどのような文献や出土品から出発しているのかを探るのもよいだろう。実際に目撃することができない過去の出来事は、確実に多くの推認から生まれており、その道筋を追うことができる。以上二つの練習から、子どもたちは教科書やテキストの記述がどのようにして生まれているのかを知るとともに、そこで用いられる推認の強さの違いをも目の当たりにするだろう。このような機会をどこかで設けるだけならば、かなり現実的ではないだろうか。

また、もっと手軽なものとして、身近な大人との議論も役に立つと思われる。まず、ある「事実」を取り上げる。学校で習ったことでも、テレビで見たものでも、何でもよい。そして、その信憑性について議論するのだが、その際にまずその「事実」がどのような認定・推認に基づいて出来上がったものなのかを分析する。ノートやホワイトボードに図を描いていくのもよいだろう。その上で、認定・推認の強弱を踏まえた議論をするのである。大人は力にものを言わせて自分の意見を押し付けることができないし、子どもは好き勝手に妄想することができない。少々レベルが高いとも思えるが、子どもとのコミュニケーションの機会になるという点でも有益であろう。

5おわりに

刑事裁判において、判断の前提となる「物事の正確な把握」とは、強い推認に基づく事実認定のことである。一方で、日常生活における「物事の正確な把握」とは、ある「事実」がどのような推認・認定に基づくものなのかを理解することなのだろう。そして、子どもたちには、裁判官をはじめとする法律の専門家を目指すか否かに関わらず、後者については身に着けてもらいたい。そのために、彼らは身の回りの「事実」を用いた練習を積むことが期待される。一方で、我々大人は期待するだけでよいのか。子どもたちは、身の回りの大人の思考や行動を、日々「教材」として学んでいる。そうだとすると、我々も今一度「事実」との向き合い方を考えるべきではないか。本稿がそのきっかけとなることを願っている。

【文責】友人(法律家) 【監修】三木 英司(サイエンスシーズ代表)